【第3日目・8/28(土) 晴れ・強風】
(平和祈念公園・平和祈念資料館・紅型染め・プール)
今日は、今までの楽しい研修から一変して平和について考える一日になります。
最初に平和祈念公園の中にある「群馬の塔」に行きました。この群馬の塔は、鬼石町特産の三波石が使われ、両手を合掌した形になっています。この慰霊塔には、沖縄戦の犠牲者だけではなく、太平洋戦争中各地で戦死した人の供養ができるようになっています。
団員達は、自分たちで作成した千羽鶴とお線香を手向けました。
慰霊塔の後ろに、群馬県の人達もたくさん戦争の犠牲になっていることを初めて知った団員達は、一様にショックを受けていました。そこから、沖縄戦終戦の地となりたくさんの追いつめられた沖縄の人達が飛び降り自殺をした摩文仁の丘(地元のアメリカ人は、スーサイドヒル「自殺の丘」と呼ぶ)にある黎明の塔に行き、眼下に広がる美しい太平洋がアメリカ軍の艦船で真っ黒になるほどになったこと、なぜ、沖縄で民間人がたくさん犠牲になったのかを神谷さんから教えて貰いました。また、団員たちには、黎明の塔に刻まれている文書とひめゆりの塔に刻まれている言葉の違いを見つけ出すように伝えました。神谷さんは、以前、糸満市役所「女性平和推進室 主幹」の要職にあったこと、生まれ育った沖縄を人一倍愛する心を持っている方なので、戦争の話を団員達に語る場合でも決して片寄った視点からではなく、歴史の実相のみを忠実に気を配りながら、日本で唯一地上戦となった沖縄戦を語ってくれました。
昨日まで、沖縄の自然の美しさと琉球王国時代の歴史を中心に研修した時の団員達の顔と今日の顔はまったく違っていました。
23万人以上の犠牲者の名前が刻まれた「平和の石礎」(へいわのいしじ)に圧倒された。そこには平和の火があり、そこを発信源として水の波紋が四方に広がる。やがて、その波紋は平和の祈りを込めて世界中へと広がっていく、平和の石礎も平和祈念資料館の屋根の形もその波の一部となっていることを教えて貰った団員達は、真剣に平和について考えていたようです。私たち指導者も団員たちも、戦争の犠牲になった人達の多さに驚き同時に、なぜ、ここまで沖縄の人達が地上戦で悲惨な思いをしなればならなかったのかを深く考える時間になりました。平和祈念資料館の中は、悲惨な戦争の写真が多く展示され、当時の「鉄の暴風」と言われた艦砲射撃の様子をスクリーンで見せ、沖縄戦体験者の話を聞くことができるようになっています。この資料館を見学した団員たちの顔が、実に神妙で真剣に考えている様子がありました。その日の感想文は、全員が戦争の悲惨さ、平和の大切さ、命の尊さを書いていました。そして、なぜ僕たちの世代にもっとしっかりとこうした歴史を教えてくれないのか?と不満も持っているようでした。大人の人達が子供たちの世代になにを伝えるべきなのか考えさせられます。日本のかっこいいところばかりを教えないで、「子どもには刺激的過ぎるからと逃げないで、真剣に伝えないといけないこと。」があることを痛感します。「刺激的過ぎる」などと言う言い訳は、この平和の石礎に刻銘された沖縄県民12万人の人達の前では通じないと思います。なぜならば、沖縄戦を含めた太平洋戦争の犠牲になった中には、多くの中学生、高校生世代が「学徒動員」という名目で借り出され犠牲になっているのですから。
神谷さんは、この戦争に関する場所に行くバスの中で、糸満市の漁師に伝わる話を聞かせてくれました。琉球王国の時代、怒って刀を振り上げて切りかかろうとした薩摩武士に、糸満の漁師が、『意地ぬ 出じらあ 手ひき、手ぬ出じらあ 意地引き』人は感情的にカッとなって怒ったときほど、その怒りを抑え、冷静になるよう努めるべき、そしてその怒った行動を慎むべきという意味の格言を伝えました。その格言のおかげで、薩摩に帰ったとき自分の母親を勘違いして切り殺さなくてすんだ、という話でした。つまり、感情で行動をせず、怒りを抑え、冷静に考えれば、まったく違う平和的な結果が生まれることを話してくれました。その話が戦争と関係があると感じた団員がいったい何人いたかは、定かではありませんが、きっと、みんな心に残っていると思います。
平和で豊かに生活している自分たちの贅沢さも痛感したようでした。
その後、名城ビーチで泳いで、バーベーキューの予定でしたが台風の影響を初めて受けて、強風と高波のため中止にして、紅型染めを体験しました。この沖縄の伝統工芸を体験することで沖縄の人達の生活の知恵も学ぶことができました。また、糸満スポーツロッジに帰ってからは、糸満市の6年生たちとプールで泳いで楽しさも満喫しました。